コラム 私のロオジエ

ロオジエへの想い(MY L’OSIER)

フランスを語る
レストラン
エリック・カイザー
(ブーランジェ『メゾン・カイザー』)
Éric Kayser
いつまでも天高い
レストランで
斉須政雄
(「コート・ドール」シェフ)
Masao Saisu
真のガストロノミーを
追求する店
ジャン=ポール・エヴァン
(「ジャン=ポール・エヴァン」ショコラティエ)
Jean-Paul Hévin
文化が香る、サロンと
呼ぶべき存在
茂登山貴一郎
(株式会社サンモトヤマ代表取締役社長)
Kiichiro Motoyama
時代の先端を
走るべき存在
奥田透
(「銀座小十」店主)
Toru Okuda
日本における
フレンチの最高峰
ドミニク・ブシェ
(レストラン「ドミニク・ブシェ」
オーナー・シェフ)
Dominique Bouchet
世界で最もフランス的な
レストラン
エリック・フレション
(ホテル ル・ブリストル総料理長)
Eric Frechon
楽しみな
ロオジエ第3楽章
大畑・ブシェヴウオツキ・りえ
(元ロオジエ広報担当)
Rie Ohata
特別なレストランの
ひとつ
滝川クリステル
(キャスター)
Christel Takigawa
ロオジエ・
ルネッサンス
ミシェル・テマン
(ジャーナリスト)
Michel Temman
ロオジエとの
人生は続く
ジャック・ボリー
(ロオジエプロジェクトスーパーバイザー)
Jacques Borie

フランスを語るレストランエリック・カイザー(ブーランジェ『メゾン・カイザー』)

美味。正味(澄みきった風味)。明確さ。ミニマリスト。的確さ(ジャスト)。各地の風味豊かな季節の食材。すばらしいフランス式の(グランド)サービス。銀座という街の中の、まるで隠されたプライべートレストランのような居心地の良さ。コンテンポラリーとアール・ヌーヴォーの美しい美術コレクション。レストラン「ロオジエ」は、東京におけるフランス料理のアイコンのようなレストランでした。フランスにも、こんなに完璧なレストランはそうそうありません。さまざまなパルファン(香り)とあらゆるテクスチュール(食感)と風味の、均整のとれたバランスの良さ。言うまでもなくすばらしいシャンパンとワインのセレクションと、最後の美味しいお茶。感じの良いシェフが日本語とフランス語を交えてお客様とにこやかに談笑する姿。そのとき、私の友人、ジャック・ボリーがとても日本人に愛されているのが分かりました。これが、2004年、私の友人であり「メゾン・カイザー」の日本のパートナーでもある木村周一郎氏と訪れた「ロオジエ」での印象です。とても幸運な、忘れ難い、特別のディナーでした。

日本では、パートナーを得るより先に、良き友人を得なくてはものごとが上手く進まないことを私は知っています。私にとっての木村氏がそうであるように、ジャック・ボリー氏にとっては資生堂の人々との関係がそうなのでしょうね。パンひとつにも、日本のお客様には格別の気を配ります。実を言えば、私たちが日本でつくるパンはとても小さめです(対するアメリカは、大きめなのですが)。バゲットはフランスと同じく小麦粉220gですが、他はミニアチュリゼ(極小化)といえるくらい、異なる風味の小さなパンが好まれます。パンの包装にも細心の注意を払います。ときに、ちょっと過剰ではないかなと私は思うくらい。パンの風味とエコロジーの点からも、フランス式の無駄のない包装に変えていこうと日本のスタッフと考えているところです。フランスの良いところも、少しずつ日本の暮らしに浸透していくのではないでしょうか。そんな日本にあって、「ロオジエ」は、本物のフランスのヒストリーを語るレストラン。そこに、注意深く、綿密で、繊細な日本特有のタッチを加えて。その絶妙なさじ加減が、驚くほど見事でしたね。

いつまでも天高いレストランで斉須政雄(「コート・ドール」シェフ)

1本の電話からロオジエとの出会いが生まれました。それは、1990年後半に『世界のレストラン80 Toques』という本がフランスから、当時ロオジエのシェフであったジャック・ボリーさんのもとに届いたのでお渡ししたいというので訪ねたことでした。1999年の改装前のロオジエでその本を30冊ぐらいいただいて、すこしお話をしてお礼を言って帰ったわずか20分ぐらいのことでした。

人間性豊かでひかえ目、ユーモアがあって、あたたかい、違和感なくファンになりました。リニューアルしている間に何度かボリーさんは資生堂の方たちと「コート・ドール」に食事に来てくださり、あるいは私の午後の休み時間に遊びに来られ、貴重なお話しや料理のアドバイスをいただく機会があり、それらが今日の私の糧となり活力となってメニューに生きています。

現在、新ロオジエのプロジェクトを推進している尾形久兵衛さんがいつの時もボリーさんと一緒にいて、この方の存在、もち味がいっそうロオジエへの信頼と安心感に厚みをつけました。できたら行ってみたいなと思う様になり改装後に友人達5人で出掛けました。ドアを開いてまず最初に思ったのが、その充足感。ジャック・ボリーのセンスはすみずみまで行き渡り、節度ある広さに過不足のない豊かな内装、サービス、そして料理に表れていました。

お客さまに何を食べていただきたいのか。そこに人間性をもいっしょに皿にのせて直球で出し続けたボリーさん。彼の人間性に惹かれてロオジエのファンになった方も多いのではないでしょうか。私の中では大好きなレストラン ロオジエとボリーさんは一体化しています。

これからも新生ロオジエがいつまでも天空高いレストランであってほしい気持ちでいっぱいです。

斉須政雄 1950年生まれ。73年から85年に帰国するまでの12年間、フランスの複数の三ツ星レストランで働く。その頃に出会った料理人たちの姿を理想として、自らがオーナーシェフを務める「コート・ドール」にて、現在も現場の最前線に立ち、チームを牽引している。

真のガストロノミーを追求する店ジャン=ポール・エヴァン(「ジャン=ポール・エヴァン」ショコラティエ)

ジャック・ボリー氏に初めて会ったのは、彼がM.O.F.(最優秀職人賞)の挑戦に、パリを訪れていた1982年。当時、ジョエル・ロブションのもと、僕がシェフ・パティシエとして働いていた「ホテル・ニッコー」の厨房でした。彼を応援するために、ブリオシュ作りの手ほどきをしたのを覚えています。その後、東京を訪れた際に数度、ボリー氏が采配を振るう「ロオジエ」で食事をしました。グランド・キュイジーヌ(素晴らしい食事)!グランド・リュックス(最高の贅沢)!まさに、ガストロノミーのためにすべてが捧げられたレストランとして記憶に残っています。正直に言えば、通常レストランは採算や経営、収支を念頭に置かねばならないしがらみがあり、ひたすらガストロノミーのためだけに運営することは、なかなかできないことです。ホテル経営など、他の経済的な基盤のもとに守られている場合は別ですが。「ロオジエ」はまさに、資生堂の名声と威信をかけた、世界でも数少ない真のガストロノミーを追求する素晴らしいレストランのひとつです。

ロオジエがこれだけ長く日本で愛され続け、存在し続けるのか、私にはよくわかります。日本人が、まず間違いなく、世界で一番、美食のエグジジョンス(高度で繊細な要求)を持っているから。フランス人もそうですが、いや、日本人がやはり一番です。あらゆる細部における正確な仕事、洗練に対する意識を持ち、感度高くそれらの違いをきわめて繊細に感じ取る。それは「お金」の問題ではないのです。真のガストロノミーは、お金をかけるだけではもちろんなし得ないのですから。

新しいロオジエに期待することは、素晴らしいデザートとお菓子、かな。世界中の街で、僕は美味しいお菓子とお茶、コーヒーのひとときをとても楽しみに、果敢に食べ続けているんです。が、意外にも本物の素晴らしいエスプレッソやコーヒーを、最高に美味しいお菓子とともに供してくれる店が東京には少ないのです。ロオジエでの、あの忘れがたい食事やデザートの感動と同様に、お茶やコーヒーとお菓子の味わえる午後のひとときを、提供していただけないものかな。

ジャン=ポール・エヴァン 「ホテル・ニッコー・ド・パリ」ではジョエル・ロブション氏の下で修行を重ねた、現在、世界で最も有名なショコラティエ。東京「ペルティエ」シェフ・パティシエを経て、1988年パリに「ル・プティ・ブレ」を開店。1983年「国際チョコレートコンクール」優勝、1986年には「M.O.F.(フランス国家最優秀職人)」を叙勲した。

文化が香る、サロンと呼ぶべき存在茂登山貴一郎 (株式会社サンモトヤマ 代表取締役社長)

初めてロオジエに伺ったのは結婚記念日でした。いまは銀座「テンダー」のオーナーでシェイカーを振っておられる上田和男さんが「バー ロオジエ」にいらしたころからのお付き合いですから、かれこれ20年以上。ロオジエは銀座の象徴であり、一歩中に入ると文化の香り漂う、まさにサロンと呼ぶべき存在でしょう。

なかでも一番思い出に残っているのが2年半前、私が「サンモトヤマ」の社長に就任したときのお祝いの席です。「壹番館」の渡邉新さんや「くのや」の菊地健容さん、「サヱグサ」の三枝亮さんたち若旦那…といってもみな40歳を超えていましたが、お互い社長就任の際に祝い合っているので、私のときも席を設けてくれたのです。「ロオジエ」で一番落ち着ける、あの角の個室に陣取って、ワインを何本開けたことでしょう。

卸売りが中心だった日本橋と違い、小売り中心の銀座で商売をしてきた者は、モダンな街でありながら、「向こう三軒両隣」ではないですけれども、お店同士の横の繋がり、そして何よりお客さまを大切にすることを第一としてきました。「ロオジエ」ソムリエの中本聡文さんを筆頭に、シェフの考えを完璧に料理に反映させるキッチンのスタッフは、迎えたお客さまどなたにも幸福な気持ちにさせてくれるすばらしいサービスを提供してくださいます。また「ロオジエ」に集う錚々たる経歴のお客さまたちは、スタッフたちとの会話が弾み和んでおられます。食事はもちろんですが、それ以上に、こうした銀座で働き、銀座を愛するみなさんに会って、コミュニケーションを楽しむ無二の場所。それが、「ロオジエ」なのです。

銀座と資生堂は、切っても切れない間柄です。時代は自ずと変わっていくし、それに連れて変化していくお客さまの嗜好に合わせることも、当然必要でしょう。そうした変えるべきところ、そして今まで愛されてきた、変えずに守るべきところとを見極めて、新生「ロオジエ」に反映していただきたいと願っています。

茂登山貴一郎 株式会社 サンモトヤマ 代表取締役社長。リセフランコジャポネ(千代田区富士見町にあるフランス語圏国の生徒を中心とするフレンチスクール)卒業。在学中にバカロレア(高校卒業国家試験卒業)取得。幼少時より銀座の変遷を見ながら今日に至る。

時代の先端を走るべき存在奥田透 (「銀座小十」店主)

ロオジエに初めて行ったのは、29歳か30歳のときだったと思います。憧れのお城の中に入っていくような気持ちで、とても緊張しました。夢のようなひとときでしたが、そのときの自分には釣り合っていなかった、と今となっては思います。車の免許取りたてで高級車に乗ろうとしても乗りこなせない――そんな感じでした。そのときは、ロオジエという日本最高のレストランは、私にはまだ早いな、と実感しました。

次の大きな機会は、私の店「小十」が、ミシュランの三ツ星をいただいたときでした。そのころは私も銀座で商売をするようになっていて、お昼に予約していたロオジエにそろそろ出かけようとしていたときに、ミシュラン事務局から「銀座小十さん、三ツ星です」と電話があったんです。

ロオジエの席に着いたら、ソムリエの中本さんが「奥田さん、まだ内緒にしておいてほしいんですが、ロオジエが三ツ星取ったんですよ」と。そう聞いて、私もぽろっと「実はうちにも連絡がありました」と言ってしまいました。当時シェフだったメナールさんもあわてて飛び出てきて「ホントに三ツ星か!?」と。気付くと、隣のテーブルにはパリの三ツ星店「ルドワイヤン」のシェフもいらしてたんです。それで「あのジャパニーズ・ボーイが三ツ星です」ということになって。やはり三ツ星の価値はフランス人こそわかることもあって、みんなが「よかった!おめでとう!」と。それが2番目の思い出です。そういうこともあって、私自身、ロオジエという場所に、やっと落ち着けるような気持ちになれました。ロオジエが幕を下ろす日の昼間にも行きました。私としても、同じ年にミシュランの三ツ星になって3〜4年が経っていたので、「お疲れさまでした」と花束を贈りました。私の人生においても、料理人としての過程においても、ロオジエはどこか節目になっていたんですね。

もっとも忘れられない料理は、一昨年の昼にいただいた、鶏の胸肉をラビオリに包んで、栗のピュレと白トリュフをかけた一品です。シンプルな料理ですが、本当に突き抜けていて、この世でいちばん美味しいと思いました。

私も来年は「小十」を移転する心積もりがあるのですが、それだけでなく、料理人としても、男としても、そして人間としても、ロオジエがリニューアルする前にステップアップしていたい、と思います。新生ロオジエは世界中の期待を背負っていると思います。ロオジエに対しては、次なる一手、新しいロオジエを見せてほしい。内装をがらっと変えて、料理も違うスタイルで攻め込んでもいいと思います。過去ばかり気にしていても先に進みませんので、私は「ロオジエ」が、時代の先端を走るべきだと思っています。

奥田透 1969年、静岡県生まれ。静岡の割烹旅館「喜久屋」、京都「鮎の宿つたや」などを経て、徳島の名店「青柳」で修業。1999年、29歳で故郷、静岡で独立。2003年「銀座小十」、2011年「銀座奥田」をオープンした。

日本におけるフレンチの最高峰ドミニク・ブシェ(レストラン「ドミニク・ブシェ」オーナー・シェフ)

以前「ホテル・クリヨン」の総料理長をしていたときに初めてロオジエを訪れました。それは1997年のことですが、ジャック・ボリー氏との付き合いは、かれこれ30年になるでしょうか。東京の「シャドネ」やホテル・オークラの「ベル・エポック」に彼がいたころからの友人です。ジャックは30年以上日本に住んでいますが、私も同じくらい長い年月、パリと東京の往復を繰り返してきましたから、日本におけるフランス料理の進歩と変遷を見てきたつもりです。

ジャックが采配をふるった「ロオジエ」は、まさに、私が東京につくりたかったレストラン!総シェフの彼が、食材から料理、内装、サービスのありかたまですべてをコントロールしながらつくりあげたすばらしいレストランでしたね。フレンチの最高峰でありながら、その空間のサイズは誰もが居心地の良さを感じずにはおかないヒューマンな大きさ。それは、すばらしい食事に欠かせない「温かさ」を醸し出す大切な要素だったと思います。路上に面した扉をくぐったあとの階段も、銀座の喧噪を離れ、これからはじまる食事への期待をふくらませる最高のアプローチでした。

コースのなかに、一皿のなかに、多くの異なる素材や味覚を混ぜこむことなく、ダイレクトに、正当に勝負するジャックの洗練された料理は、数あるフランス料理のなかでも、トレ・フランセ(とてもフランス的)なインスピレーションを感じさせました。こうした料理とともに、絶えずお客さまを楽しませることに長けたジャックの和やかなコミュニケーションは、多くの日本人のお客さまに喜ばれたことでしょう。私が「ロオジエ」に招待されて料理をさせていただいたときには、二人でそれはもう楽しく、お客さまとおしゃべりしたことを思い出します。シェフの個性やキャラクターも、実は料理の一部だと思います。日本のお客さまに愛される「ロオジエ」の料理は、たとえばジャックの親切な人柄や歓待の気持ちが表れた、とてもヒューマンな料理だったのではないでしょうか。

長年日本のフランス料理を見てきたシェフとして、私も新生「ロオジエ」に期待しています。これまでに培ってきたやわらかで、しなやかなエスプリを、どうぞ失わずに。フランスと日本を繋ぐ、本物のフランス料理を供するレストランであり続けてほしいと願っています。

ドミニク・ブシェ ジョエル・ロブションにその才能を見出され、「トゥール・ダルジャン」などの総料理長を務めたフランスのグランシェフ。現在はパリ8区のレストラン「ドミニク・ブシェ」のオーナーシェフを務める。「ロオジエ」では、2002と2003年、ジャック・ボリーとのコラボレーションイベントを開催。2002年にはフランスで最も名誉ある勲章であるレジョン・ドヌール勲章を受勲した。

世界で最もフランス的なレストランエリック・フレション(ホテル ル・ブリストル総料理長)

ロオジエに招かれて東京を訪れたのは、ブルーノ・メナールシェフがミシュランの3ツ星を獲得した年でしたから、2007年だったでしょうか。充実した、すばらしい「時」を皆さまと過ごせたという思い出ですべてが彩られています。

東京の隅々までは私に知りようがないのですが、銀座・並木通りの印象は、まるでアヴェニュー・モンテーニュやフォーブール・サン・トノレ通り!私の勤めるパリのホテル「ル・ブリストル」界隈と同じく、シックでラグジュアリーな街並みでしたね。そこに、なくてはならないレストランがロオジエだと実感したものです。

たとえばブレス産の鶏など、フランスにおいても貴重な、風味豊かな最高級の素材。使い心地の良い、選び抜かれた銀器や食器。居心地の良さをあらゆる面から考え抜かれたフランスの伝統と現代が調和する内装。「最高のおもてなしを」としつらえられたインテリアもサービスもすべて、供される「料理」を決定するのだと、私は常々思っています。

原点はフランスであるという「芯」はぶれることなく、伝統を常に革新させていくロオジエの本物のフランス料理。その料理の核心に沿うべく、すべての環境やサービスがつくりあげられたのだと感じる空間です。その意味で、フランス国外にある、世界の数多くのすばらしいフレンチレストランの中でも、ロオジエは最もフランス的なフランス料理店だと確信します。この店を東京につくりだしたジャック・ボリー氏という、日本におけるフランス料理の最高のプレゼンテーターに、心から敬意を表します。

それにしても、新ロオジエのシェフには、いったい誰が迎えられるのでしょう!フランス料理のシェフにとってロオジエのシェフに抜擢されることは、ひとつの夢です。店や厨房の環境、優秀なスタッフ、お客さまの質、そのすべてが羨ましいほどに整い過ぎています!最高峰を望み、クリエーションに懸ける者にとって、「過ぎる」ということはないのかもしれません。もしも私を抜擢してくださるなら、無論、喜んでうかがいます。そう言うほどの価値があるレストラン、それがロオジエなのです。

エリック・フレション 1993年に36歳で「M.O.F. (国家最優秀料理人賞)」を受賞した、ホテル「ル・ブリストル」のシェフ。1999年にブリストルに迎えられ、2009年には念願の3ツ星を獲得すると同時に、フランスの料理専門誌が選ぶ「今年のシェフ」に。「ロオジエ」では2007年にコラボレーションイベントを開催した。

楽しみなロオジエ第3楽章大畑・ブシェヴウオツキ・りえ(元ロオジエ広報担当)

パリの街を歩いていると、ことに7区あたりでしょうか、素敵なマダムに出会います。かなりのお年なのでしょうが、鮮やかな口紅にストッキング、お洒落にハイヒールを履きこなして、背筋は見事にすっと伸びています。まるで折れることなく、しゃんと枯れてゆく、フランスのバラのよう。このプライドに満ちたエレガンスこそ、フランス料理のエスプリの原点かなと思います。

ふり返れば、8丁目中央通り初代のロオジエでは、フランスに、パリに、憧れていました。ヌーベルキュイジーヌが世間ではやるなか、本格派を謳い、日本一をめざしました。当時はまだ高級なイメージしかなかったフレンチレストランに、人々の醸し出す歓びの空気をつくり出したいと考えていました。

並木通りに移り、すべての要素での卓越と、独自の存在感を勝ち得たと言ってもいいでしょう。無限の嗜好あふれる銀座で、永遠のクラシックを尊重しながらも、地道にロオジエならではの個性を追求しました。ジャック・ボリー氏をはじめ、スタッフ一人ひとりのプロのプライドと、老舗資生堂が創業以来育んできた文化の結晶であったと思います。

さてさて、ロオジエ第3ジェネレーションはどんな風に進化してゆくのでしょう。目に美しく、身のとろけるように美味しいお料理をいただきながら、世界一の美女になった気分で幸せにしてくれるサービスはもちろんのこと、至福の時を包むエレガンスは完璧なアートでなければなりません。それも、とびきりのオリジナル。かつて憧れであったパリが注目するような、大胆で繊細な独創に満ちた、また、東京で、そして銀座でなければ実現できないような、ハイクオリティーな幸せのビックリ箱であってほしいと期待します。2年後の里帰りは、多分私より頭ひとつ大きくなっているだろう2人の息子たちにエスコートされての「大好きな銀座で夢見心地におなか一杯」、を楽しみにしています。

大畑・ブシェヴウオツキ・りえ 元ロオジエ広報。1982年から1988年まで資生堂パーラー企画部に在籍し、レストランの出店計画などに携わった。現在はパリ在住で、ロオジエ時代のつながりを活かし、多くの有名シェフと交流を続けている。

特別なレストランのひとつ滝川クリステル(キャスター)

意外に思われるようですが、もともと母がつくってくれるフランスの家庭料理を食べて育ったせいか、高級フレンチに足を運ぶ機会はそう多くはありません。ただ生活にメリハリがある方が好ましいですし、何か自分の中に奮起したい、変えたいという気持ちがある時などには、いいお店の予約を取って、おしゃれもして友人と出かけることがあります。ロオジエはその特別なお店のひとつです。

「特別」ですから、そう頻繁にうかがうわけではありませんが、初めて店の扉をくぐったのは、アナウンサーの先輩の皆さんに連れてきていただいた社会人2~3年目の頃。個室での会食でしたが、その中で一番若輩だったこともあり、とても緊張していたことを憶えています。その後2度ほど、プライベートでうかがった時はフロアに席を取りました。以前からサービスが素晴らしいと聞いていたため、どういうものか経験してみたいという好奇心もあったと思います。

初回はインテリアやサービスをチェックする余裕もありませんでしたが、あらためて見るロオジエの空間の、華美すぎず、控えめすぎず、バランスのいい上品な空間や落ち着いた雰囲気はとても印象的。といって、似たお店はと尋ねられても思いつかない、独特の存在でもあります。いただいたお料理について詳しく憶えているタイプの美食家ではないのが残念ですが、とてもいい時間を過ごせたこと、そしてサービスの方が予想以上に、徹底してゲストのケアに目を光らせていたことは忘れられません。ソムリエの方も、料理に合わせてわざわざボトルの栓を開け、グラスで出してくださる太っ腹ぶりで、美味しく、気持ちよく酔えました。

約3年もの時間をおいての再オープンには、多くのゲストからそれだけの期待が寄せられるわけですし、スタッフの方のプレッシャーもひとしおだと思います。それだけの意気込みやエネルギーの込められた料理に、2013年に再び向かい合えると思うと、今から本当に楽しみです。

滝川クリステル 2000年共同テレビジョンに入社、フジテレビの各番組のキャスターとして人気を得たのち、現在はフリーキャスターとして活躍。資生堂では2009年10月から「TSUBAKI」に起用されるなど、CM出演も多数。

ロオジエ・ルネッサンスミシェル・テマン(ジャーナリスト)

ある日のこと。私が東京で、世界的シェフのアラン・デュカスにインタビューをしていると、彼は正直にこう言いました。「ロオジエが成功したやりかたを真似するようなことはしないつもりだ。ロオジエは唯一無二だからだ。日本にジャック・ボリーは10人も必要ない」

資生堂の社長(現・名誉会長)であった福原義春は、常にロオジエにとって「最高なもの」を探し求め、1986年にそれを手に入れました。フランス国家最優秀料理人賞受賞者であるジャック・ボリーが、新料理長になることを承諾したのです。福原はボリーにレストランの鍵を手渡すと、こう言いました。「どうか、やりたいようにやってほしい」

すらりと洗練されたたたずまいは、どこかケリー・グラント似。エレガントそのものだが決して気取ったダンディではなく、時おりその緑がかったヘーゼルアイが印象的な眼鏡の奥に隠れる。こうした風貌を持つジャック・ボリーは、日本において瞬く間に人々の話題に上る人物となりました。

また、最近の特別な瞬間と言えば、もう一人の人気シェフ、ブルーノ・メナールが2005年に加わった時でしょう。彼はさまざまな料理法を考案し、そして常に最高の一皿を提供してきました。

ロオジエでは、terroir(テロワ―ル)、つまりその土地の土壌、風土をいつも尊重する、まさに料理という芸術を味わうことができました。「間違いない。ロオジエは私が最も好きなフランス料理店だ」小泉純一郎元総理大臣がかつてそう言ったように、ジェットセッターや日産のカルロス・ゴーン氏などのビジネスエグゼクティブたち、世の中を動かし揺るがすムーバー&シェイカーや各界著名人にとって、奇跡を提供するロオジエは日本におけるフランス料理の最高峰となったのです。

ロオジエはミステリーです。高度な訓練を受けた45人のスタッフが、毎晩、40名のお客さまにきめ細やかなおもてなしをする、世界でも稀有なレストランなのです。

ミシェル・テマン フランス人ジャーナリスト。北野武の自伝『Kitano par Kitano 北野武による「たけし」』を共著、フランス・日本で出版され話題に。『リベラシオン』紙の特派員としても活躍し、日本にも造詣が深い。

ロオジエとの人生は続くジャック・ボリー(ロオジエプロジェクト スーパーバイザー)

ロオジエが一料理人の人生にどれほどの影響を与えたのか。今回は少し昔のことを振り返らせてください。

私は幼いころ、家族みんなでペリゴールとコレーズの間にあるロンザックという村に住んでいました。父は工場に勤務しており、兄弟は3人いました。そして私はこの村のレストランで働きはじめました。

まもなくルネ・バシュラン氏のもとで、その後グラン・ヴェフールではレイモン・オリヴェ氏のもとでアシスタントとなりました。そして1971年、師であるジャン・ドラベーヌ氏は私を東京に送ったのです。そのとき彼は、弟子が母国に戻ってくるかどうかなどは考えもしなかったでしょう。

東京では最初にシャドネーで働きはじめ、のちにホテルオークラに移ったのですが、そこではジャン・ドラベーヌ、ポール・ボキューズ、アラン・シャペル、ジョエル・ロブションなどの仲間たちとガストロノミー・ウィークを開催しました。その後多くの時間を捧げたロオジエでは、お客さまは神さまでした。どのようなお客さまからのどのような要望にも応える術を知っていることが不可欠なのです。ロオジエでは、これはずっと変わらないでしょう。

しかし、私は日本の手法や日本人の嗜好・味覚に特段に感化されたわけではありません。何年にもわたり、ロオジエのシェフとして自分自身のアイデンティティーを磨き、それをお客さまに提供するよう努力してきました。また、古典主義の精神を近代主義のそれを織り交ぜ、情熱を注いできたのです。来日して30余年が経った今では、日本は第二の故郷となりました。日本の友人たちと共に過ごした何年もの間、日本が、そして銀座が、自分にとって祖国であると感じていました。

その場所で、その国で、ロオジエは権威ある名前となったのです。偉大なる名前。フランスの、そして品質の象徴。そのロオジエで、長い間指揮を執ることができた経験は、今後の人生を導く礎であり、大きな誇りです。

ジャック・ボリー 1982年に「M.O.F.(国家最優秀料理人賞)」の称号を授与されたフランス料理界の第一人者。現在はロオジエプロジェクト スーパーバイザーを務め、店の方針や運営などにおいて新しいステージへと導くべく尽力している。